春一番のプロポーズ (2011/06/19)

 お日さま園で過ごす最後の午後は、いつになく静かで、穏やかだった。まだ学校や幼稚園から帰ってきていない者が多いため、普段の騒々しさはどこかに隠れているらしい。騒がしすぎるのはあまり好きではない玲名だったが、この静けさにほんの少しだけ寂しさを感じてしまうのはきっと、いつも賑やかなところも含めて、お日さま園が好きだったからだろう。
 玲名は園舎の縁側に腰掛けて、空を眺めていた。いくつか並んだ白い雲が、どこまでも続くスカイブルーの中をのんびりと泳いでいく。彼らの手を引いた柔らかな風が、南の国から運んできた暖かさで彼女を包み込んで、足早に通り過ぎていった。それは、ほんの一瞬の出来事だったが、彼女に春が訪れたことを感じさせるには、十分であった。
 今年の春の訪れは、玲名にとって特別な意味を持っている。
 先週、中学校を卒業した彼女は、県外にある全寮制の女子高に進学することが決まっていた。スポーツ特待の制度を利用しての入学である。入学式はまだ先だったが、その前に寮に入らなくてはいけない決まりになっており、玲名は明日を入寮予定日としていた。つまり今日が、彼女がお日さま園で過ごす最後の一日となる。

 長い年月だった。玲名は空に目を向けたまま、お日さま園での生活を振り返る。本当に、いろいろなことがあった。両親との別れ、吉良星二郎との出会い、仲間たちと過ごした日々。すぐに思い出せるだけでもたくさんのことがありすぎて、簡単に遡ることはできない。つらく、悲しいこともあったが、幸せな思い出の方が断然多いように感じる。
 そう考えることができて、玲名は少し安心した。大好きなお日さま園での生活が、嫌な思い出ばかりというのは、あまりにも悲しい。しかし、もしも嫌な思い出しかなかったとしたら、きっと彼女はお日さま園を好きになるはずはないから、悲しむことはなくなるだろう。そう思い直して、彼女は自分の旅立ちに思いを馳せた。
 進学先の学校は、女子サッカーに力を入れているらしい。瞳子の話では、中学サッカー界で有名な選手も玲名と一緒に入学するそうだ。その選手の名前は、玲名も何度か耳にしたことがあった。
 お日さま園の皆とプレイするサッカーも楽しかったが、今度のチームはまったく違うサッカーをすることになるだろう。彼女は、新しいプレイの可能性に密かに胸を躍らせていた。
「玲名」
 不意に名前を呼ばれて、振り返る。そこには、ヒロトが立っていた。すりガラスの器をふたつ持っている。
「おやつ持ってきた。アイスなんだけど、いちごとバニラ、どっちがいい?」
「バニラ」
 ヒロトは玲名に片方の器を差し出した。彼女は手を伸ばして、それを受け取る。ガラス越しに伝わるアイスの冷たさが、ひんやりと彼女の手を冷やした。短く礼を言うと、彼は「どういたしまして」と答えて、玲名の隣に腰掛けた。
 器に添えてあった小さなスプーンでアイスを掬い、口に運ぶ。バニラの優しい香りと甘さが、ふわりと口の中に広がった。
「明日、か」
 アイスをスプーンで掬いながら、ぽつりとヒロトが呟く。出発の日のことを言っているのだろう。玲名は、前を向いたまま「ああ」と短く答えた。
「荷造りは?」
「もう済ませてある」
「そうか」
 沈黙が二人の間を漂う。
 こうして並んでアイスを食べていると、幼い頃に戻ったようだった。あの頃はまだ、何も知らなかった。サッカーも、嫉妬も、お父様への忠誠も、何も。ただ、お日さま園で過ごす日々が、嬉しかった。
 あの頃と今このときだけを繋ぐと、ジェネシス時代のことも、自分が明日お日さま園を出て行くことも、彼女にはすべて嘘のように思えた。ずっとこんな穏やかな時間が続いていくような、そんな気がした。しかし、そんなことはなくて、悲しい思いをした過去はすべて本当のことで、明日は確実にやってくる。
「なんだか、不思議な感じだ」
 ヒロトが、再び口を開いた。
「何がだ?」
「玲名のいないお日さま園っていうのが、想像できない」
「大げさだな」
 そう言ってみたものの、考えてみれば玲名にもヒロトのいないお日さま園が想像できなかった。それも当然だろう。二人は、人生の大部分を一緒にこの園で過ごしたのだ。彼女は改めて、自分がお日さま園で生活した時間が長かったことを実感する。
「玲名は、大人になってもサッカーを続けるつもりでいる?」
「それは、選手としてか?」
「ああ」
「まだわからない。やりたいことはたくさんあるからな。勉強もしたいし、海外も見てみたい。ただ、何らかの形でサッカーに関わっていたいとは思う」
 そうか、とヒロトは頷いた。
「お前は、やはりお父様の下で働くのか?」
「そのつもりだ」
 そう答えたヒロトは、空になったガラスの器を傍らに置いた。からん、とスプーンが音を立てる。玲名も、それにならって空になった器を置いた。縁側にガラスの器がふたつ並んでいる様子は、どこか懐かしく見えた。
「あのさ」
 ヒロトがやけに改まった調子なのを不思議に思って、玲名はヒロトの方を見た。真剣な色をした瞳がふたつ、彼女をじっと見つめている。
 その真摯な表情に、玲名は目を逸らすことができないまま彼の言葉を聞いた。
「玲名のやりたいことが全部終わってからでいい。いつかここに戻ってきて、それで」
 ヒロトは、一度そこで言葉を切り、息を吸う。彼が何を言おうとしているのかわからないまま、彼女はその様子を見ていた。
「俺と、ずっと一緒にいてくれないか?」
 玲名は驚いた。急に何を言い出すのだろう。どう返事をしていいかわからない。
「……ずいぶんと突然だな」
 必死に言葉を探して、やっと出てきたものがこれだった。動揺していたが、それを悟られるのは嫌だったので、冷静を装ってみせる。
 ヒロトが自分に対して、こんなことを思っていただなんて、全然気が付かなかった。玲名自身、彼をそんな風に見たことなんて一度もなかった。ないはず、だった。それなのに、彼の言葉をうれしいと感じてしまうのはなぜだろう。鼓動が速まる理由も、わからない。
「ごめん」
 ヒロトがあまりに素直に謝ってくるので、玲名はますますどうしていいかわからなくなる。
「別に責めてるわけではないが……」
「今すぐに答えを出さなくてもいい。ただ、ちょっとだけ考えてほしかった」 
 玲名は、眉を顰める。
「そんな大事なこと、ちょっと考えただけで答えが出せるわけないじゃないか」
 つい、言い方がきつくなってしまう。
「それに、こんな言い方」
 反則だ、と言いかけて言葉を飲み込んだ。いきなりこんなことを真剣に言われたら、ちょっと考えるだけじゃすまなくなってしまうに決まっている。わざと、なのか?それを知っていて、ヒロトはこんなことを言ってくるのだろうか。彼女はヒロトを睨み付けた。
 ヒロトは、何も言わない。言葉を探しているようだった。
 息を深く吸って、吐く。そうすることで、ちょっとだけ落ち着いた。
「……まあ、考えておいてやる」
 彼女がそう言うと、ヒロトは安堵したように「ありがとう」と笑って、続けた。
「待ってるから」
 待ってる、なんて。と玲名は思った。せっかくの穏やかな午後に、こんなにどきどきさせておいて。認められるか。そんなの。
「……迎えに来い」
 今度はヒロトが驚いたようにこちらを見る。その視線に耐えられず、彼女は置いておいた器を持って立ち上がった。
「寒くなってきたから、中に入る」
 そう言い残し、園舎の中に入ろうとした彼女の横を、暖かい風がふわりと吹きぬけた。