夕凪はカーテンを揺らさない (2011/5/12)
美しい景色だった。
目の前に広がる橙色の世界を、一本の線が海と空に分けている。彼らをひとつの色に染めた太陽は、すでに半分ほど地球の裏側に顔を隠してしまった。残された半分は、光を海に落として波を煌かせるのに忙しそうにしている。昼の間ずっとぎらぎらと働いて地上をこれでもかというほど暖めていたのに、まだ輝き足りないというのだろうか。
ヒロトは窓辺に立ち、そんな景色を眺めていた。彼の横を通りすぎた風が、ふわりとカーテンを揺らす。窓から差し込む光は部屋のあらゆるものに溶け込み、それらを夕暮れ色に染めた。
海に来るのはFFI以来だったので、潮の香りがひどく懐かしく感じた。島中が潮の香りで包まれていたライオコット島を思い出す。FFIで優勝した日のことが昨日のことのように思えたが、ヒロトはもう三年生になっていた。
今日から三日間、中学三年生になったお日様園の子供達はこの海辺のコテージで勉強合宿を行う。小さい子も多いお日様園では、なかなか勉強に集中できないだろうということで、瞳子が連れて来てくれたのだ。
実際、すでに小学校も幼稚園も夏休みのため、お日様園は一日中動物園のようにうるさくなるので、彼らにとってこの配慮はとてもありがたかった。
潮騒に混ざって、汽笛やうみねこの声が聞こえてくる。そのどれもが寂しそうなのは、太陽との別れを惜しんでいるからだろうか。
そんな音たちにぼんやりと耳を傾けていると、不意に誰かがドアをノックした。コンコンという軽快な音で、はっと我に返る。
「どうぞ」
ヒロトがそう返事をすると、ドアは静かに開いた。そこから顔を覗かせたのは、緑川だった。
「ヒロト、夕飯だってさ」
どうやら、それを伝えるためにわざわざ呼びにきてくれたらしい。
キッチンとダイニングは一階にある。二階のこの部屋に来るには、階段をのぼらなければならない。このことの為だけに、二階に来させてしまったことを、ヒロトは申し訳なく思った。
「ああ、ありがとう。わざわざ、ごめんね」
「別に構わないよ。他の人も呼ばなくちゃいけなかったし」
緑川の言葉を聞きながら、ヒロトは開け放していた窓を閉めた。先程まで聞こえていた外の音が、ほんの少しだけ遠ざかる。
「何をしてたの?」
緑川が不思議そうに尋ねた。
「外を見ていたんだ。いい景色だよ。緑川も見る?」
「うん。あ、でも、もうごはんできてるよ」
「ちょっとくらいなら、大丈夫だよ」
「じゃあ、ちょっとだけ」
ヒロトはドアの前に立ちっぱなしだった緑川を部屋に招きいれると、再び窓を開けた。二人で並んで窓辺に立ち、外を見る。
橙色の世界は、先程とは変わらず美しいまま、まだそこにあった。ただ、夕凪の時間になったのか、風はやんでいた。先程カーテンを揺らした風は、もう消えてしまったようだ。飛んでいた鳥たちも、どこかへ行ってしまったらしい。その世界で動いているものは、打ち付ける白波だけだった。
「綺麗だね」
「うん」
緑川はこの景色が気に入ったようだった。目を細めて、じっと海を見つめている。
「緑川」
「ん?」
唐突に名前を呼ばれた緑川は、ヒロトの方を向く。それと同時に、ヒロトは緑川の唇に自分の唇をそっと重ね合わせた。そして、すぐに緑川から離れる。触れたか触れていないかわからないような、短いキスだった。
「なっ……」
緑川は動揺している。そんな彼を見て、ヒロトは思わずくすりと笑った。
「ごめんごめん」
「ごめんってさあ……」
緑川は怒ったようにヒロトから目を逸らし、再び海を見つめた。しかし、その頬はほんの少しだけ赤く染まっている。
しばらく緑川の横顔を眺めていたヒロトも、緑川と同じように海に目をやった。太陽はもう、その余韻だけを赤い空に残して、完全に沈んでしまっている。間もなく夜がやってくるだろう。ここでは、星が綺麗に見えそうだとヒロトは思った。
「帰ったらさ」
彼は緑川に話しかけた。緑川は怒っているのか照れているのか、返事をしない。ヒロトは構わずに続けた。
「花火、見に行こうか」
「……うん」
ヒロトの方を見ないで、緑川は頷く。その動作に合わせて、彼の一つに結った髪が揺れた。
「あと、星も」
「え?」
「星も、見たいな」
呟いた緑川に、ヒロトは微笑んだ。
「ああ。見に行こう」
緑川が、ヒロトの顔を見る。優しい笑みを浮かべているヒロトに、彼は笑い返して頷いた。
「そろそろ、下、降りようか」
こくん、と再び緑川が頷いたのを確認して、ヒロトは窓を閉めた。窓越しに、一番星が煌めいたのを、彼は視界の片隅に見た。
もうすぐ、夜がやってくる。